父なる母なる神~本物の神と出会える場所~

神世界へと行ける光の道を、神の姿を書き現して、神宿る文章をお届けしています。

神にならねば神作品の全体像を把握できない

どうも、こんにちは、神描人(かみえがきびと)です。

NO.1の「神を描く人」を目指して頑張っていきますので、応援よろしくお願いします。
では、今回の「神宿る文章」をお届けします。

犬は、人間みたいに多彩な色を識別できないから、人間が描いた絵画の素晴らしさを完全には理解できないし、人間よりも動体視力が優れているから、ブラウン管のテレビ映像を見ても1枚1枚絵が表示されていくコマ送りみたいな感じになってしまっていて、人間と同じ感覚で映画を楽しめない。
人間にとってはネギやタマネギやニンニクなどのネギ類は無毒で美味しく食べられる食材なのだけど、犬にとっては有毒で邪魔な存在となる。
これらから分かるように、犬の体では、人間が使っている技術、楽しんでいる世界を完全には理解できないように設定してある。
おぼろげには見えているだろうけど、犬の頭では人間世界を完全には把握できない。
同じく、人間にも神が作った芸術品がちょっとだけ見えているのだけど、人間の頭では神世界を完全には把握できないのだ。
神となりて、はじめて、完全に理解できるようになる。
なぜ自分よりも上の世界の存在をはっきりとは見えなくしてあるのかというと「自分達よりも恵まれた世界を知ってしまうと、その世界よりも劣っている自分達の世界で一生懸命に生きられなくなってしまう」という理由からだ。
犬は、犬なりに一生懸命に生きている。
だけど、どんなに努力しても、犬よりも人間の方が、はるかに多くの遊びを楽しめる。
人間は、人間なりに一生懸命に生きている。
だけど、どんなに努力しても、人間よりも神の方が、はるかに多くの遊びを楽しめるのだ。
上の世界を知ってしまったら、自分達が住んでいる世界を物足りなく感じてしまう。
だから、隠されている。
もう、分かってきたでしょう?
あなたが住んでいる世界は制限だらけの世界、明らかに、第3者によって制限が加えられ、完全支配されている世界なのだ。
ダーウィンが言うように「環境に適応するために体は進化した」のであれば、人間が美味しく食べられるものを犬が食べられない、という道理はない。
どう考えてもおかしいし、食べられないことによる利点なんて、どこにもないはずだ。
ただ、神が「これは人間の食べ物で、これは犬の食べ物」と決めただけの話。
チョウチョなんかは、幼虫の時にはムシャムシャと葉っぱを食べていたのに、成虫となると上品に花のミツを吸い始めるのだぞ。
明らかに、この事実が「自分が食べれる食べ物は自分で自由に選択できる」ということを示唆しているし、それが出来ないのは「今は、まだ、その自由を神から与えられていない」というだけの話なのだ。
そして、よ~く、じっくり考えてみると、チョウチョが取捨している選択が、おかしいことに気付けるはずだ。
サナギの時に、それまでの自分の体を溶かして原形がない状態にして、それまでの自分とは全く異なる新しい体へと生まれ変われているのに、そこまで体を自由自在に変更することが出来ているのに、なぜ、わざわざ、花のミツを吸うことしか出来ないようなストローみたいな変な口の形にする必要性があるんです?
「自由」に自分が選んで体を変更したのなら、花のミツや樹液や腐った果実などの「液体状のものしか食べられない」なんていう「不自由」な体を選択する訳がないのだ。
美味しそうに葉っぱをムシャムシャ食べていたのだから「もっと葉っぱをいっぱい食べられる体になりたい」と思っていたはずで、「口をストロー状にして汁をいっぱい飲みたい」なんて思っていなかったはずなのだ。
汁を吸いたくなったとしても「葉っぱと汁の両方を食べたい」と思って、両方を食べられる体へと変更するのが当たり前の自然な流れなのであって、「汁だけ」という選択肢は有り得ないはずなのだ。
どう考えても、チョウチョよりもはるかに上の存在から、着せ替え人形のように服(体)を着せ替えられて、主食を「植物の葉っぱ」から「花のミツ」へと強制的に変更させられている、としか考えられないし、それが、現実なのだ。
自由に選択できるならば、チョウチョが、自分で、そんな窮屈な生き方を選択するはずがない。
遺伝子システムを駆使して、選別が行われているのだ。
幼虫の頃は「植物の葉っぱ」を美味しく感じる味覚になっていて、成虫になると「花のミツ」を美味しく感じる味覚になっている。
そう、「味覚」ですらも、神がデザインした服の1部分なのであって、服が変われば味覚も変わる。
「どれを美味しく感じさせるのか」という設定ですらも、神が決定していることなのだ。
そして、神が空想して作り出した生き物であるからこそ、矛盾だらけの仕組みになっている。
花のミツを食べ飽きて葉っぱを食べたくなったら、もう1度サナギになって、幼虫の姿に戻ればいいだけの話で、そして、また、花のミツが吸いたくなったら、また、サナギになって、成虫の姿に戻ればいいだけの話なのだ。
しかし、その自由は、許可されていない。
だから、出来ない。
「1度、成虫の形に変更したら、もう、幼虫の形に戻れない」という制限が加えられているのだ。
「何度でもサナギになって何度でも体を変更できる」という、出来て当たり前のことが、出来ていない。
1度出来たのだから、「何度でも出来る」はずなのに、出来ない。
ほんと、おかしなことだらけだ。
「現実世界の生き物」ならば、「よ~し、今度は、もっと違う体に変身してみよう」と好奇心まる出しで、何度も何度も変身して遊び始めるのが普通の流れであるはずなのに、その自由を奪われたかのように、みんながみんな同じ形状の体へと変身していく。
「変身前」と「変身後」が、最初から決められていて、自分では選べない。
普通に考えたら、こんな、おかしな生き物が、存在する訳がない。
「現実世界に生きている生き物」ならば、チョウチョはチョウチョにしかなれなくて、セミセミにしかなれなくて、カブトムシはカブトムシにしかなれない、なんていう「縛り」は有り得ない。
現実世界じゃないから、こんな、おかしなシステムになっているのだ。
人間と同じく、チョウチョも、神が考案した服を着せられているだけの架空の生き物。
チョウチョだけじゃなく、地球上に存在する生き物、みんな、「主食」ですらも神によって決められた「空想上の生き物」なのだ。
もし、「生き残るために自力で体を進化させた」と仮定するのであれば「全ての食べ物を美味しく食べられる」というのが最も環境に適応した形だと思いませんか?
これが100点満点の進化形であるはずなのだ。
しかし、どの地上生物も、そうなっていない。
人間ですらも、食べられないものが存在する。
「まずい」だとか「体に毒」だとかで、服の考案者である神によって「食べないように」誘導されている。
そう、人間も、制限を加えられている側の存在にすぎないのだ。
真の自由は、神となりて、はじめて手に入れることが出来る。
あなたが、制限を加えられていない存在である神となれば、地球上にある全ての食材を美味しく食べることが出来るようになって、それどころか、神世界に存在する極上の料理を毎日食べ放題で過ごすことが出来るようになるのだ。



読んでいただいてありがとうございます^^
私自身、まだまだ未熟な人間であるため「自分も一緒に更生させちゃおう」という勢いで書いてます。
「こういう人間になれたらいいな」という理想形を描いているので、ご理解よろしくお願いしますm(__)m