父なる母なる神~本物の神と出会える場所~

神世界へと行ける光の道を、神の姿を書き現して、神宿る文章をお届けしています。

終末後に常識は一新される

どうも、こんにちは、神描人(かみえがきびと)です。

NO.1の「神を描く人」を目指して頑張っていきますので、応援よろしくお願いします。
では、今回の「神宿る文章」をお届けします。

人間は、神が作った自動的に進行する教育プログラムの中で生きている。
神が設定変更を行えば、あなたが常識だと思っていたことは一瞬でくつがえされることになり、まさに、その瞬間がやってくるのが、終末なのだ。
その時に、今の常識は一新される。
土を耕して植物の種を植えて、肥料と水を与え続けて成長させて、何ヶ月も辛抱して待って、やっと、美味しい果実が手に入る。
あなたはこれを常識だと思っているけど、これも1つの設定であり、完成品である果実がポンと手に入る世界にすることだって、神には可能なことなのだ。
大事に育てることの大切さを学ばせるために、色々な知識を学ばせるために、植物の成長過程をわざと複雑にしてある。
学び終わったら、すぐに果実が手に入る世界へと移行することになるのだ。
そもそもからして、植物の立場になって考えてみれば分かると思うけど、動物たちが競って奪い取りに来る美味しい料理である果実を実らせて、その中に動物の消化器官では消化されない種を仕込んでおいて、芸術家に勝るとも劣らない美しい花を咲き誇らせている存在なのに、そんな賢い生き物が「ただ太陽の光に向かって伸びていって、あとはボンヤリと突っ立っているだけ」という退屈でつまらない生き方を選択する訳がないのだ。
植物は、自力で進化したのではない。
神が、熟考して作ったのだ。
もしくは、神から作る権利を与えられた者が、神の力を借りて作ったのだ。
これ以外の答えは、ない。
自然環境を整えるため、動物たちにエサを与えるため、人間に感動を与えるために植物は存在しているのであって、今現在は、果実を得るために面倒くさい取得手順になっているけど、本来は、どう考えても「すぐに手に入る」のが当たり前の手順であるはずなのだ。
そうなっていない今の世界の方が、おかしい。
食べ飽きないように多種多様な果実が用意されていて、見飽きないように多種多様な美しい花が咲き乱れているのは、間違いなく、審美眼を持っている「人間のために」作っておいたからなのだ。
人間が家の柱として木材を使用したり、部屋の空気を清浄にするために観葉植物を置いておいたり、花見の季節のために桜の花道を作ったりすることは、植物を用意した時点で、神には全て想定済みのこと。
歴史上に人類が登場する前に、人類のための植物が存在している。
よく「卵が先か、ニワトリが先か」という議論が行われているけど、これは「神の思考が先」という答えが正解で、神が無から創造したものを誰にも気付かれない所にこっそりと置いておいたり、突然変異で誕生させたりして、偶然を装った形で新たな生物は生み出されていくものなのだ。
そして、神が100%の能力を発揮して作られた作品は宇宙の外側にあり、宇宙の内側に存在している作品は、かなり能力をセーブして作られているのだ。
春先の数週間しか桜の花見が楽しめないように、楽しみは、なぜか最小限に抑えられているし、賞味期限や年齢制限など、本来、必要ないはずの制限も加えられているし、制限だらけの不自由な世界にあなたは住んでいる。
美味しい料理を食べ終わると、また手間ひまかけて作らなければいけないし、ずっと至福な状態を保ち続けたくても「お腹いっぱいになるまで」という制限すらも付いているのだ。
人間の体に与えられている快感も、同じだ。
もっともっと楽しめる体になっていてもおかしくないのに、どう考えても少なすぎる快感が体に付加されているだけで、これは、わざと少な目に設定してあるのだ。
セックスの快感は数分くらいで消えてしまうから、また次の快感を追い求めてさまようのだけど、制限なしのエクスタシーに比べれば微々たるもので、人間が追いかけ続けているものは、どれもが制限付きのはかないものばかりで、愛のないセックスの後にはむなしさと罪悪感すらも感じるし、神の御心に沿わない快感を追いかけ続けても、結局、十分な満足は得られないようになっているのだ。
この世のものは、腐ったりサビたり風化したりして、わざと永遠に存続しないように設定されていて、当然あるべきはずのものが与えられていない。
人間がメンテナンスを怠ると壊れていってしまうものばかり。
本当に「ちょっとだけ」の世界なのだ。

 

 

管理人:神描人(かみえがきびと)

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