父なる母なる神~本物の神と出会える場所~

神世界へと行ける光の道を、神の姿を書き現して、神宿る文章をお届けしています。

「どういう思いで行動したのか」が大切

どうも、こんにちは、神描人(かみえがきびと)です。

NO.1の「神を描く人」を目指して頑張っていきますので、応援よろしくお願いします。
では、今回の「神宿る文章」をお届けします。

今の人間がやっていることの全ては神がやっていることの縮小バージョン、大人が乗っている自動車のプラモデルを子供が組み立てて遊んだり、完成品を動かしてみたり観賞してみたりして楽しんでいる程度のレベルなのだ。
神は100%の存在。
宇宙の大きさは神の体の大きさであり、宇宙内に存在している全ての知識が神の所有している知識であり、宇宙内で実現できていることの全てが神によって実現されていることであり、まさに、全知全能という言葉そのものの存在が神なのだ。
人間に付けられている制限装置を解除した100%が神の能力であり、あなたが記憶したことは神も記憶しているし、むしろ、「神が100%記憶できているのに対してあなたは何%しか記憶できていない」という関係で、あなたが見ている映像を神も見ているし、あなたが聞いている音声を神も聞いているし、あなたが感じている感覚ですらも神と共有しているものなのであって、全てにおいて「神の1部分である」あなたが行うことは神との共同作業となる。
そして、世界三大珍味キャビア、トリュフ、フォアグラ、世界で最も硬くて光り輝くダイヤモンドやルビーやトパーズなどの宝石類、メルセデス・ベンツBMWやポルシェなどの高級車、ルイ・ヴィトンやグッチやシャネルなどの高級バッグや腕時計、あなたが「欲しい」「欲しい」とおねだりしている数々の高級品ですらも、元をたどっていくと、全て、神から与えられた自然素材を起点としていることが分かるだろうし、さらには、美男美女だって1つの作品なのであって、性感帯による快感も1つの設定であり、神がその気になれば、いくらでも新たな快感を体に追加できるし、美男美女だけが住む世界にすることだって可能なのだ。
そうなっていないのは、それ以前に、学ぶべきことが沢山あるからなのだ。
リミッターを解除された世界に住むためにはそれなりの品格が不可欠で、自分よりも顔が良かったり才能があったりする人に対してしっとせず、自分より劣っている人に対しても見下すことなく、人それぞれの個性を尊重することができる器が大きい人間になっていく必要があるし、他者の作品をねたむことなく素直に「素晴らしい」と認めることができて、男女や時代や国による価値観の違いにも理解を示せるような懐の深い人間へと変わっていかなければいけないのだ。
さらに、仕事や子育てや学校生活を経験することで教育や勉強や人付き合いの難しさを学び、それらは悩み抜いて苦しみ抜いて得られた知識や能力だからこそ自分の宝物となるのであって、戦うなら正々堂々、真剣勝負して、誇り高き人間にならないといけない。
「どういう思いで行動したのか」が大切で、日本の幕末維新の志士たち、アメリカの南北戦争、中国の三国志の英雄達が英雄たるゆえんは「人民の平和のために命をかけて戦ったから」なのだ。
だからこそ人々は感動し、後世となった今でも美談として語り継がれているのであって、英雄達は人々に情熱や戦う勇気を与え続けてくれる偉大な存在となっている。
彼らの犠牲の上で今日の平和があることを、決して忘れてはいけない。
そして、戦争が奪った多くのもの、人々の笑顔や愛する家族や恋人や友人、夢、希望、いかに人々の心から余裕をなくさせ幸せを奪い取った忌み嫌う出来事であったのかを強烈に記憶して、2度と同じ過ちを繰り返さないようにしなければいけないのだ。
戦災の渦中であっても、自分のやるべきことを見失わず、私利私欲による憎悪うず巻く人間間の醜い争いを何度も目の当たりにしても愛を貫き通し、傷ついた人々のために献身的に働いた人もいる。
クリミア戦争で敵味方の区別なく傷病兵の手当てをして「白衣の天使」と看護師が呼ばれる由来となったナイチンゲール、「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことをモットーとしてカルカッタのスラム街から救済活動を始めて後にノーベル平和賞を受賞した修道女マザー・テレサ
彼女たちは傷ついた人々の視点に立って「どうしたら救うことができるのだろう」と親身になって真剣に考えて行動していたからこそ後世においても良きお手本となっているのであって、彼女たちの生き様が同じ道を歩む人々の指針となり、多くの人々から愛される存在となって、記憶の中でずっと輝き続けている。
戦争が終結して、平和になったらなったで、やるべきことは沢山ある。
物質的な戦災復興はもちろん重要なことだけど、精神的な面における「相手の気持ちを思いやる」ということに主眼をおいた心理学的な要素も大切になってきて、この時に、サルみたいな人間を卒業して、繊細な気配りができる人間になっておく必要があるのだ。
ゆくゆくは神となりて宇宙を管理する立場になるのだから、出会った1人1人の個性をしっかりと見極め、様々なタイプの人間がいることを勉強しておかなければいけない。
時代によって美人像は変化するし、国によってモテる顔が異なるし、太っている方がモテる国だってある。
力士は太ってパワーを身に付けるのが仕事で、ファッションモデルはダイエットを頑張って美しいプロポーションを保つのが仕事だし、お笑い芸人なんかは、自分を悩まし続けてきたコンプレックスこそが笑いを生む最大の武器になっていたりする。
華やかな衣装が似合う人もいれば、着飾らない方が内面の輝きが増して魅力的になれる人もいるし、「どれが良い」という明確な基準はないのだから柔軟な思考が大切なのであって、ドラマを制作する上で、太っているけど何だか温かみがあって一緒にいると癒される人、ファッションセンスは悪いけど友達思いで何事にも一生懸命になれて周囲に情熱を与えてくれる人、無邪気な笑顔で元気を与えてくれる子供達、ちょっとオタクっぽいけど妙にギャグのセンスが良くて笑える人、脇役も含めて様々なタイプの人がいるからこそストーリーが面白いのであって、みんな同じ顔で、みんな同じ体形で、みんな同じ性格で、みんな同じ声のドラマなんて、そんなもの見たって全然面白くないのだ。
自分で自分に合うキャラクターを見つけて、そんな自分を好きになれたなら、あとは、誰から何と言われようと自分が信じた道を突き進んでいって、より自分が好きな形へと完成させていけばいい。
例えば、アニメやお笑いやスポーツの地位を向上させるために神から天性の才能を与えられて生まれてきた人が、テレビやマンガを全く見ずにスポーツで遊ぶこともなく机に向かってまじめに勉強だけして公務員を目指すのは、なんか違う感じがするし、真心のこもった接客サービスのお手本となるように神から商売の才能を与えられて生まれてきた人が、マザー・テレサみたいな生き方をするのは、なんか違うのだ。
マザー・テレサは素晴らしい人物なのだけど、みんながマザー・テレサになってしまったら、つまらない世界になってしまう。
職業ごとに目指すファッションやスタイルは異なるし、スーパースターが豪華な衣装を着て豪遊して豪邸に住んで「成功したらこんな楽しい生活ができるんやで」と人々に夢を与えるのも大切なことなのだ。
人間は「もしかしたら宝クジが当たって明日から夢みたいな人生が始まるかも」という希望があるからこそ頑張れる生き物でもあるのだから……
欲を否定しすぎると「やる気」がなくなってしまうから、いけない。
適度な欲望を持って、人それぞれが自分に合った花を咲かせるのが理想的で、ブタやサルではなく「人間」として生まれてきたのだから、人間にしか味わえない料理やファッションや恋愛の楽しさを学ぶことだって重要なのだ。
人間にとって、遊びも、大切な要素なのだから……

 

 

管理人:神描人(かみえがきびと)

当ブログはリンクフリーです。どのページでも無断リンクOKです。